ポニポニピープル Dialogue 005 村瀬孝生
(4/7)野垂れ死ねる社会
菊地玄摩 本を書かれたり、いろんなところでお話されていますが、ポニポニや山内さんの存在が言語化を手伝った面はありますか?
村瀬孝生 それはその通りですよ。ポニポニは山内さんよりも得体が知れない形で。ポニポニそのものが実践ですよね。山内さんはたまに来て、僕が具体的に感じたことをよりロジカルにしてくれたりしてくれたのは、間違いないんですよね。そういうプロデュースの中でポニポニのイベントに参加すると、僕の話に対する共感度合いが、僕が本来所属している介護現場よりもあるわけですよ。僕にとってのホームだと言っているのは、そういうところなんですよね。言葉がストレートに伝わる、共通言語を持っている感じですよね。今まで疎外感を持って生きていたところもあるので。
菊地玄摩 それは介護の業界や現場では、言葉がストレートに伝わらない感じがあるということですか?
村瀬孝生 介護の現場にも、受け止めてくれる人はたくさんいるんです。ただ、実践においては、そうは言っても無理があるよねとか、最終的には村瀬ワールドですね、で終わったり。強い共感を持っている人が個別にはいるけれど、それが集団や組織を挙げて共にあるという感じはないわけですよ。
菊地玄摩 なるほど。村瀬さん自身、言語化と実践を行き来されてきたと思います。
村瀬孝生
僕も20代から現場にいますが、自分の役割や立ち位置では自分の声さえ届かないという、ままならなさを感じてきました。現場では強固なシステマティックな世界で頑張っている人がほとんどです。そういう意味では、僕の実践とかエピソードに対してすごく深い共感を持っている人がたくさんいることは間違いないし、僕もそこに共感があるから今まで言葉にすることができた。
それは間違いないんだけど、あまりにシステマティックな世界が、恐ろしいくらい強固なんですよね。僕らはそこから漏れた人たちと一緒にいたからこそ、そのシステマティックな世界から逃れられたわけですね。ただ現場は、チームや組織でやっていて、制度の縛りがある。そこに組織のトップの考えが合わさると、がんじがらめなんですよね。そこで僕らの実践が「よりあいワールド」であってしまっているところに、孤立感があるんですよね。
これはタイミングの世界なんですよね。あまりにも当事者を抜きにしたシステマティックなものになると、タイミングが合わなくて、みんな困っている。僕らは、お年寄りのタイミングの世界にいることができた。僕らはお年寄りとタイミングを合わせられるように、仕組みを自分たちで積み上げてきた自覚があって。そこの乖離が埋まらずにきているという感じですかね。
菊地玄摩 なるほど。村瀬さんの著書の中で、再開発工事で道や景色が変わってしまい家に帰れなくなってしまった人の話がありました。生身の人間の性質を元にした構造の社会であれば、多少変わったとしても、家を見失うことなく帰ることができる景色もあり得たのではないか、と書かれていて。僕はそれをを読んだ時に、そういう「社会」も実現できるのではないかという期待を感じました。
村瀬孝生
そうですね。僕も決して、別の領域に行っちゃって「社会」からいなくなるとか隔絶するとかそういうイメージではないところがあって。
僕らの実践から考えると「よりあい」は大場ノブヲさんから始まっていて、その人が最初に「野垂れ死ぬ」と言ったんですね。自分の住んでいる場所から出て、施設に入るくらいなら野垂れ死ぬんだと。元々、野垂れ死ぬ覚悟で生きているのだから、あなたがいきなり来て施設に入れだとかということには関係ないんだと。それを言い切れる老人だったわけですよ。すごいなと思いました。野垂れ死んでもいいんだと。今さら、あなたたちから施設に入れと言われても、知ったことかと言ったわけですね。
だけれども、「社会」はそうはいかないわけですよ。マンションから火を出されては困るし、自立できなくなったのだから施設に入るしかないという状況になり、結局「よりあい」を作らせたわけです。「よりあい」の支援体系がある程度作られていき、今までの社会のシステムにはなかった居場所を大場さんの必要と共に作り出してきた。その流れの中で、大場さんは最後に自ら作った居場所で看取られたわけですよ。野垂れ死にしなかったんですよね。「よりあい」はそうはさせなかった。
野垂れ死にさせなかったということから、僕はもう一度原点に帰った時に、この社会にいながら、野垂れ死ぬことをできるようにしたいというか、そういうことができる社会を考え始めたんですね。
菊地玄摩 野垂れ死にができる社会というのは、先ほどの包摂とは別の事態なんでしょうか?
村瀬孝生 僕が言いたい野垂れ死にとは、孤立しきって死んでいったり、存在していたことが知られていない、ということではないんです。あのおじいさんあそこにいるけど、どうやって生きてるんだろうと気になってたけど、死んだらしいよ、と。関わる人もそれなりにいて、決して孤立していたわけではない。ちゃんと人も関わっていたし、こちら側の都合で病院や施設に入ることもなく、なんか行ったら死んでたんだよね、みたいなものをこの社会の中に作れると、老いとか認知症とかに対する、何と言うのでしょう、「悲観さ」が薄れていく気がするんですよね。
菊地玄摩 孤立しているわけではないし、何かの都合を押しつけられるわけでもない、ということですね。
村瀬孝生
どっかに帰属させちゃうんですよ、この社会は。施設の利用者とか、病院の患者さんとか。帰属させて、この小さな自己完結的な社会を安心させようとするんですよね。そういう意味では、「よりあい」のことを無縁者集団だと思っていたんです。縁のない、縁を失った人たちの集まりだと思っていて。でも実は、無縁者の集団に、優しさというか静けさというか暴力性の低さを感じて。
どこかの何かに帰属させて、縁を作ることが重要で、どんどん繋いでいって…みたいなところにある暴力性はすごいんですよ。何かに帰属していることが、人にとってひとつの安心や喜びであることも間違いないんだけど、そういう集団性ではなくて、無縁者がバラバラに、孤立しているのではなく、集団的にいる、ということ。そこにある集団性みたいなものがないと、どこかに強制的に帰属させられて、そこの規範を押し付けられて生きていく、もしくは死んでいくということから離れられない気がして。もしかすると、ポニポニはそのルートに辿り着けるのかも知れないと思っているところがあります。
有縁者の持っている暴力性みたいなものが発動しない集団性は、無縁者の世界にこそヒントがあると思っています。それは孤立することなく野垂れ死ねる、というんですかね。野垂れ死にがあまりに悲惨なイメージが強すぎるので、他に代わる言葉があるのか。野垂れ死ぬという言葉をむしろ使いたいのか。ちょっと複雑なところなんですけど。
菊地玄摩 僕もポニポニなら、孤立を超えた何かに繋がっているのかも知れないという期待をしてしまうので、わかる気がします。
村瀬孝生
そこは孤立とは違うじゃないですか。かといって何か強烈な縁で結ばれているわけではないというか。
集まりは、土地や時間を仲立ちにして、自分の限られた身体でしか共にできないということがあるじゃないですか。助けに行くにしてもご飯を持っていくにしても。北海道の人が九州の人を支援できないですから。
だから、地域の中で人と人が関わらざるを得ないんだけど、それが名前のついた帰属できる集団でしか発動できないのではなくて、「誰か分からないけど弁当届けました」とか、「詳しくは知らないけどお互いの生活で具体的に関わっている」みたいな距離感…なかなかうまく言えないけど、そういう集団性だったり地域性みたいなもの。「地域と地域を繋ぐ実践があったから絆が生まれました」みたいな方向にいかないというか。簡単に組織化されないというかね。なんか分かりますかね。言いたいことが言葉にできてるかな。
菊地玄摩 そうだなと思って聞いているんですけど、言葉で応答できないというか、よい言葉が見つからない感じです。